幕末
2回目の幕末。舞台は京都です。前回紹介した坂下門外の変以降も幕府を中心とした公武合体の試みは続いていました。一方京都にある朝廷では長州藩を中心とする尊王攘夷運動が激しさ増していました。
そしていよいよ公武合体派と尊王攘夷派の対決が京都で始まることになります。
日本史Bの常識~十六~
問:公武合体派が尊王攘夷派を京都から追い出したクーデターの名前とこの後同じ京都で起きた尊王攘夷派と公武合体派の武力衝突の名前を答えなさい。
日本史B:クーデター、八月十八日の政変、武力衝突、禁門の変
中学歴史:戊辰戦争!
八月十八日の政変
前回でも紹介しましたがこの当時、幕府は力を落とし続けていました。一方、改革や商売に成功し大きな力を持っていた藩が当時いくつかありました。その一つが長州藩です。
力を持った長州藩は尊王攘夷運動を主導していき長州藩は京都にある朝廷内でも力を伸ばしていました。
朝廷内には尊王攘夷派に近い急進派と慎重派がおり、この慎重派は争いを好まなかったため公武合体派に近づきました。
慎重派の働きかけにより公武合体派はクーデターを起こし尊王攘夷派と朝廷内の急進派を京都から排除することに成功しました。これが八月十八日の政変です。
池田屋事件から武力衝突へ
尊王攘夷派を京都から排除することに成功した公武合体派ですが公武合体運動はあまりうまくいかず、尊王攘夷派運動はまた活発になり尊王攘夷派は京都に戻るべく機会をうかがっていました。
尊王攘夷派の動きに対し公武合体派は警戒を強めていました。公武合体派の新選組は池田屋にいた尊王攘夷派の人たちを捕らえて殺害しました。もちろん尊王攘夷派の人たちは怒りました。
長州の軍隊は京都へ向かい京都を包囲。長州の軍隊と公武合体派の軍隊の緊張状態が続きいよいよ戦いが始まりましたがあっという間に長州の軍隊が敗北してしまいました。これが禁門の変です。
この後若干公武合体派が力を取り戻します。逆に長州は力は落とすし、幕府からは追討されるなど大惨事となります。
ということで幕府対反幕府の戦いは一度は反幕府側が敗れることとなりました。ではなぜ幕府は倒されたのかは次回紹介します。
コメントはまだありません