日本史Bの常識
今回で7回目の日本史Bの常識。今回は江戸幕府がその体制を整ていった時代を取り上げます。
日本史Bの常識~七~
問・豊臣家滅亡のきっかけとなった事件は?
日本史B:方広寺鐘銘事件
中学歴史:大坂の陣
邪魔者だった豊臣家
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開き一気に体制を整えていきました。仲間の大名は優遇し、将来的に脅威となりそうな大名は江戸から遠い場所に行かせることで、簡単には倒せない幕府を作り上げていきました。
江戸から離れさせられたり、江戸に人質を取られたり、大名行列でお金を食わされたりといろんな方法で反乱を押さえつけにかかりました。
幕府が倒されないようになるだけ手を尽くした徳川家康ですが一つだけ不安に思っていることがありました。それが豊臣家です。
豊臣秀吉がいた時ほどではありませんがそれでも豊臣家は江戸幕府ができかけのころはまだ大きな力を持っていました。
できるだけ反乱の芽を摘んでおきたい徳川家康はどうにか豊臣家をつぶせないものかと考えを巡らせていました。
こじつけで開戦
どうにか豊臣家をつぶしたい徳川家康ですが何の理由もなく突然豊臣家を攻撃するというわけにはいきません。何か理由となるものを探していた徳川家康は理由となるものを見つけてしまったのです。これが方広寺鐘銘事件です。
以前に徳川家康は豊臣家当主の豊臣秀頼に方広寺の大仏殿の再建を提案していました。そして豊臣家による方広寺の大仏殿の再建が始まり、その際豊臣秀頼の名で鐘が奉納されました。
そして再建が終了し披露会みたいなものが開かれた際、豊臣秀頼の鐘も披露されました。そしてこの鐘には「国家安康」「君臣豊楽」という文字が彫られており、これをきっかけとして大坂の陣が起こり豊臣家が滅亡するのですがなぜ上の二つの文が問題になったのでしょうか。
かなりこじつけですが前者は家康を倒すという意味にとれることと後者は豊臣家が君主となるという風に読み取れてしまうことが問題だったそうです。しかし上の二文はたくさんの文の中からたった8文字を取ってきてそれがたまたま徳川家康を侮辱しているように読み取れるということですからこじつけにもほどがありますが、結局これがきっかけで豊臣家は滅亡してしまいました。
まとめ
豊臣家滅亡のきっかけは方広寺鐘銘事件。この事件をきっかけとして大坂の陣が起こり豊臣家は滅亡した。
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