日本史Bの常識~三十一~
問:藤原基経と宇多天皇の対立のきっかけとなった事件を答えなさい。
日本史B:阿衡の紛議
中学歴史:基経?宇多天皇?
藤原基経
藤原良房の後を受け藤原氏北家の中心人物となったのは藤原基経です。基経は清和天皇以降4代の天皇の時代に政治を主導していくことになります。
阿衡の紛議
基経は清和天皇以降陽成天皇、光孝天皇のもとで政治を主導していくことになります。特に光孝天皇は基経の助言を得て天皇となったため基経に対し恩義を感じていて基経を関白に任じました。これが関白の始まりです。
光孝天皇の次の天皇、宇多天皇も基経を関白に任じようとしました。しかし何やらよく分かりませんが当時の慣習の関係で基経は一度断りました。(一度断ってからもう一度要請を受けてから関白に就任するという段取り?)宇多天皇が基経を関白に任じる際、橘広相という人物に基経を関白に任じるという旨の書類(勅書)を書かせました。そしてその内容が基経を阿衡という役職に任じるというものでした。阿衡というのは摂政関白の異称なのですが位のみの形だけの役職であるという意味も含まれているらしく基経は怒り、以後政治を行わなくなりました。いわゆるボイコットです。
それまで政治を主導していた人物がいなくなったことで政治は停滞し朝廷は混乱します。宇多天皇は事態の収束のために勅書の改訂を行いました。また橘広相は排斥されることとなりました。
のちにこの事件は収束し基経は政治に復帰しました。
昌泰の変
阿衡の紛議以降宇多天皇と基経の間には溝が生じていました。逆に力を得ていたのがあの有名な菅原道真です。阿衡の紛議以降菅原道真は宇多天皇からの信頼を得て重用されていました。
当然、藤原氏北家は菅原道真を邪魔に思いました。当時の藤原氏北家の中心人物であった藤原時平の策略により菅原道真は左遷され失脚しました。これと連動するように宇多天皇も発言力を失いました。
しかしこの後天皇の藤原氏に対する抵抗が始まります。
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