欧米の力を知った長州藩と薩摩藩 興味深い幕末期

日本史B

幕末の続き

 今回は前回長州藩が公武合体派に敗れたあとの話です。攘夷から倒幕へ方針転換したきっかけとなった出来事を紹介します。

薩英戦争

 幕末、日本では欧米との戦いが二つありました。その一つ目が薩摩藩とイギリスが戦った薩英戦争です。

 この薩英戦争が起きたきっかけは生麦事件にありました。当時日本は開国が進み、多くの外国人が日本を訪れていました。日本では攘夷という気運が高まっていたため日本にいた外国人がよく殺されていました。この生麦事件もそうした流れの中で起きた外国人殺傷事件です。一応大名の行列を殺された外国人は通り過ぎたという殺傷の理由がありますが当然イギリス側は日本に対し賠償を求めました。しかし薩摩藩側は応じずイギリスは報復行為に出ることになりました。

 こうして薩英戦争が始まり、薩摩藩側はイギリス軍の圧倒的な力を見せつけられることになります。しかし台風の影響でイギリス側も損害を被ったため勝敗は決まらないままこの戦争は終わりました。

 負けはしませんでしたがイギリスの力に圧倒された薩摩藩はイギリスと講和を行い以降両者は協力関係になります。薩摩藩はイギリスに接近することで軍の強化を図りました。そして倒幕へと動き出すことになります。

四国連合艦隊下関砲撃事件

 薩英戦争の後に起きたのが長州藩と英米仏蘭の四国連合との戦いである四国連合艦隊下関砲撃事件です。

 長州藩もかなり攘夷の気運が高まっており、その具体的な行動として下関海峡を通っていた外国船に向かって砲撃をしました。

 こんな一方的な攻撃を行うと、当然を外国から怒りを買うことになり長州藩は四国連合から報復を受けることになりました。英米仏蘭はいずれも大国ですから長州はもちろんかなうわけがありません。一瞬で下関砲台を占拠されてしまいました。

 薩英戦争の時の薩摩藩と同じように長州藩も欧米との戦いで圧倒的な力を見せつけられ攘夷が不可能であることを知りました。

 そして長州藩も軍事力強化のためにイギリスに近付き、薩摩藩と同じように倒幕へと向かい始めました。

表向きは幕府側

 倒幕へと向かい始めた薩摩藩と長州藩ですが最初は幕府には従いますという態度を見せていました。

 その後長州藩は倒幕の態度を明らかにし、幕府から西国の藩に向けて長州を討伐せよという命令が出ます。

 しかし西国の有力藩である薩摩藩は討伐へは向かいません。その理由は薩長同盟です。また長州藩はイギリスに接近することで得た軍事力で幕府側を破るくらいの力が既にありました。そして将軍交代を機に長州の討伐は中止となり幕府にはもう力がないことが明らかになってしまいました。

まとめ

薩摩藩VSイギリス 薩英戦争(生麦事件の報復)
長州藩VS四国連合 四国連合艦隊下関砲撃事件(外国船砲撃の報復)
以後両藩はイギリスに近づくとともに倒幕へと向かい始めた。

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